Category Archives: Farewell – 去りゆく戦士たち

Farewell-去りゆく戦士たち:アルフォンソ・ソリアーノ

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このコラムは今年引退した選手たちのキャリアを振り返っていくコラムである。第10回はドミニカが生んだ名選手アルフォンソ・ソリアーノを紹介しよう。

<生い立ち~プロデビュー>

アルフォンソ・ソリアーノは1976年1月7日ドミニカのサンペドロ・デ・マコリスで生まれる。6歳の頃、彼の夢は遊撃手としてビッグリーグでプレイすることであった。しかし、16歳になった彼に興味を持つ球団はなく、唯一興味を持った広島東洋カープがドミニカに設立したカープアカデミーに参加する。そこでの実績が認められ、1996年に来日。1997年には早速1軍入りを果たすが、1軍では9試合で17打数2安打――後にこの2安打はソリアーノの名球会入りに関しての物議をかもすこととなるが――に終わってしまう。これを受けた広島はソリアーノに対して4万5000ドルの契約金を提示するが、ソリアーノはそれを拒否し帰国していった。この一連の騒動に対してソリアーノは後に「プロでプレイする機会をくれたので恨みはない。」と振り返っている。

帰国した彼だが、その才能に目を付けたニューヨーク・ヤンキースと契約を交わす。当初はサードを守るが直ちにセカンドにコンバート。1999年は、2Aで打率.305、15本塁打、24盗塁を記録し、その年のフューチャーズ・ゲームに出場、類い稀なる才能でMVPに輝くなど大活躍。続く2000年はほとんどを3Aで過ごし打率.290、12本塁打、66打点を残し、着実にエリートの階段を登っていった。

Farewell-去りゆく戦士たち:ボビー・アブレイユ

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このコラムは今年現役を引退した選手たちのキャリアを振り返っていくコラムである。第9回目は「最も過小評価された選手」と言われたボビー・アブレイユを紹介しよう。

<生い立ち~プロデビュー>

ボビー・アブレイユは1974年3月11日ベネズエラのアラグア州マラカイで生まれた。彼の住むアラグアは野球とサッカーが盛んな地域で、ボビーとその兄弟たちは幼いころから野球に親しんだ。外でプレイしない時も、知識が豊富な父ネルソンとともにラジオやテレビで試合を観戦した。ロベルト・アロマー(2B)を目標としていた彼は当初二塁手を守っていたが、父に外野手としての適性を見出され転向している。その後、16歳になったボビーはアストロズのスカウトに見いだされ球団のアカデミーに入学する。この時父ネルソンは「これはチャンスだ、行って来い」といい、息子の挑戦を後押しした。

アカデミーでも頭角を現しルーキーリーグに昇格。しかし、当時話せた英語はこんにちは、さようなら、トイレの3つのみだったという。キシミーに渡ったボビーはそこで56試合に出場し打率.301、10盗塁、13捕殺とオールラウンドに活躍。この頃から次第に周囲からプロスペクトとして見なされるようになっていく。快進撃は続き、2Aで長打率.530、3Aで打率.304、74打点をマークしアストロズのマイナー最優秀選手に選ばれる活躍を見せた。

Farewell-去りゆく戦士たち:ポール・コナーコ

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このコラムは今年現役を引退した選手たちにキャリアを振り返っていくコラムである。第8回目は、シカゴ・ホワイトソックスの名一塁手ポール・コナーコを紹介しよう。

<生い立ち~プロデビュー>

1976年3月5日にロードアイランド州のプロビデンスで生まれた。幼いころから打撃のセンスは抜群で高校時代の1994年には捕手として打率.558、12HR、50RBIをマークし高校のシーズン歴代最高打率と18本の二塁打で高校最多二塁打記録し、(いずれも2003年のアイク・デービス(1B)によって更新)順風満帆でのドラフトを迎えた。

結果はロサンゼルスドジャースから1位指名(全米13位)。彼のマイナー生活が始まった。その後は順調に昇格を重ね1996年には3Aアルバカーキに到達。1997年には打率.323出塁率.404、OPS1.028を記録しマイナーリーグの最優秀選手賞を受賞し、その年のセプテンバーコールアップにて念願のメジャーデビューを果たしたのだった。

Farewell-去りゆく戦士たち-:エリック・チャベス

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このコラムは今年現役を引退した選手たちのキャリアを振り返っていくコラムである。第7回目はマネーボール時代を象徴するアスレチックスの名選手、エリック・チャベスを紹介しよう。

<生い立ち~プロデビュー>
1977年12月7日にエリック・チャベスはカリフォルニア州で生まれた。高校時代は強打の三塁手として名を馳せ、USC(南カルフォルニア大学)から満額の奨学金を出すオファーを受けるほどだった。しかし、チャベスはUSCのオファーを断り、1997年に全体10位指名を受けたオークランド・アスレチックスと契約する。

プロになった普通の高卒選手ならまずはルーキーリーグ、有望な高卒選手でもAクラスからスタートするものだが、チャベスはA+からスタート。平均年齢が4歳年上の選手と一緒にフルシーズンそこでプレー、18本塁打と非凡な才能を披露しBaseball Americaのプロスペクトランキングトップ100にランクインした。翌年からAAでプレーすると88試合で22本塁打を放ち格の違いを見せつけ、AAAに昇格。順調にメジャーへの階段を上っていき、1998年の9月に20歳にしてメジャーデビューを果たした。

Farewell-去りゆく戦士たち-:アダム・ダン

Adam Dunn

 

 

 

 

 

 

 

このコラムは今年現役を引退した選手たちのキャリアを振り返っていくコラムである。第6回目はHRか三振か、まさにメジャーの代名詞とも言えるスラッガーの名を体現したアダム・ダンを紹介しよう。

<生い立ち~プロデビュー>
1979年11月9日にアダム・ダンはテキサスのヒューストンで生まれた。幼いころから野球を楽しみ、ダンの父親は右で打つより左で打った方がよく打球が飛ぶと気づき,この時から右投げ、左打ちになった。しかし、野球はダンが最も好きなスポーツではなかった。今はなきテキサスにあったNFLのチーム、ヒューストン・オイラーズが全盛期だった時代、ダンはアメフトに強い関心があったのである。背が高く、長身で足の速いダンが持前のリーダーシップを発揮できるクオーターバックになったのは自然な流れだった。高校に入ってもアメフトを重視し、アメフトがオフシーズンの間に野球をやっていた。

高校でのアメフトのキャリアは素晴らしく、NFLのクオーターバックになると思われていたが、高校卒業時にMLB球団のシンシナティ・レッズがダンを全体50位で指名する。レッズはアメフトをやりたいダンに対して、アメフトのシーズンになれば大学でアメフトをしてもいいという条件を提示し、これを承諾したダンは大学でアメフトをしつつレッズのマイナー組織で野球をする二束の草鞋を履くことにしたのだった。

最初はうまく両方をこなしていたが、アメフトでは先発ではなく控えにされ、期待の新入生が入ったときに遂にはタイトエンド転向を勧められた。これを機にアメフトをやめ、野球のみに専念することとなった。マイナーでは優れたバッティング技術と慎重なアプローチ、平均以上のパワーが評価されBaseball AmericaのMLB全体のトッププロスペクトランキングでも名前が載るほどの逸材であった。